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やさしさとは

やさしさとは

先日、以前当塾で講師を務めていた二人の女性がそれぞれ一人ずつ赤ちゃんを連れて私を訪ねてくれました。在職中にはパワーで生徒を圧倒していた二人でしたが、やさしく我が子をあやしている姿に「先生から母親に変わったのだなあ…」という感慨を覚えた次第です。

 愛情に包まれている二人の赤ちゃんを見ながら、ふと「やさしさとは何だろう」という想いに駆られました。

 聖路加国際病院の医師である大平健さんは「やさしさの精神病理」という本の中で、「小学校では、小学生が刃物で鉛筆を削ることについて賛成、反対と方針が大きくぶれてきた。この二つの意見はまるで正反対のように思えるが、二つの意見には『子どもがけがをするのは嫌だ』という共通の心理が根底にあったのだ。こういった風潮の中、『やさしさ』がますます変質を遂げている。それまでの治療としての『やさしさ』から予防としての『やさしさ』が求められるようになっていった」という趣旨の言葉を述べています。私は、治療としての「やさしさ」は感情面での「やさしさ」のウェイトが高く、予防としての「やさしさ」は論理面の「やさしさ」のウェイトが高いと考えました。そして、教師には、特に論理面の「やさしさ」が必要だと思うのです。そのことについて、親の「やさしさ」と比較して述べたいと思います。

 「やさしさ」とは相手に対する精神的な気遣いです。冒頭の「ママ」になった元講師たちが我が子に与える「やさしさ」はまさしく「無償の愛」が発露されたものです。これは感情面での「やさしさ」でしょう。でも、子どもが成長するにつれて、親は我が子を正しい方向に導くために「叱る」という「やさしさ」も時々は与えるようになっていきます。こちらが論理面での「やさしさ」です。本人が同じ過ちを繰り返さないように叱るのです。まさに、予防としての「やさしさ」ですが、そういう時に親子の衝突が起き易いのです。「我が子だからそこまで言える」という親の心理と、「親だからここまで反発できる」という子どもの心理が交錯するからです。親子にはお互いに「甘え」があります。また、あって当然であるとも思います。しかし、当人どうしはなかなか「自分が相手に甘えている」という事実に気がつきません。結果、一時的にすれ違いや衝突が起きるのでしょう。

 さらに言えば、子どもは様々なものに好奇心を抱き、自分自身で経験したがります。そういった時に親は「これは危ない」「それはダメ」と子どもの行動範囲を限定します。子どもが大きく道を外さないようにするためです。しかし、こちらの予防としての「やさしさ」も、当事者である子どもにはなかなか伝わりません。子どもは、親が自分を縛ろうとしているように感じてしまうからです。まさしく「親の心、子知らず」です。

 このように、親には感情面の「やさしさ」と論理面の「やさしさ」両方が混在しています。感情面の「やさしさ」は子どもにも分かり易いのですが、論理面の「やさしさ」はその性格が違うこともあって、子どもには伝わりにくいのでしょう。子どもが親の論理面の「やさしさ」を理解するには時間が必要なのです。

 次に教師の「やさしさ」について述べたいと思います。前述のとおり、教師の「やさしさ」は親のそれと比べて論理的な側面に重きが置かれるべきだと考えます。教師と生徒の間にどれだけ信頼関係があったとしても、子どもは親に見せる全ての表情を教師に見せるわけではありません。教師もまた自分の感情の全てを曝け出したりはしないものです。お互いにどこか遠慮があります。ですから、感情的な側面のやり取りよりも、論理的な側面でのやり取りの方が理に適っているのです。教師の論理面の「やさしさ」も「誉める」「叱る」という行動になって現れます。特に「叱る」方では、前述の通り、教師・子ども双方の感情面が多少なりとも封印されているので、親のそれと比べて子どもに伝わり易いと思うのです。保護者の方がよくおっしゃる「私が言ってもなかなか聞かないので、先生から言ってください」は、的を射た言葉なのかもしれません。

 ここで、根底に「やさしさ」を持った「叱り方」の実践例について述べたいと思います。私は子どもと一対一で話をする時に、飾らない鋭い言葉を用いて本音で話すように努めています。子どもの心の奥底にまで私の言葉を届けたいからです。話す時に使う言葉は、相手を良い方向に変えていくための手段だと考えています。きれいごとをふわふわと話していてもなかなか伝わりません。必死に選び抜いた鋭い言葉や心の底から出てくる本音ベースの言葉だけが、その時の表情や身振りと合わさって初めて子どもに届くと信じています。その際に、子どもは涙を流すことも多いです。でも、そこで絶対に揺れてはなりません。そう自分自身に言い聞かせています。ぶれることは「叱る」という「やさしさ」が、「甘さ」や「甘え」に変わってしまうからです。涙は感情によって流れます。「叱る」のは論理面での話です。涙を流せば解決するという誤ったロジックを子どもに植えつけないように細心の注意を払います。届いた後には、子どもを良い方向に導くための示唆を与えます。最終的には、本当に理解できたのか、どう自分を変えようとするのか、子ども自身に語らせます。自分の言葉で宣言させることによって「先生に言われたから…」という甘えの気持ちを断ち切るのです。いつかは、子どもは卒業します。巣立った後に、ひとり立ちができるように仕向けるのが、教師のやるべき大きな仕事なのだと考えています。

 長くなりましたが、どうしても紹介したい話があります。これもまたつい最近の出来事なのですが、とある大学附属高校に通う高3の卒業生が訪ねてきてくれました。自分自身で決定した進路について報告するのが一番の目的だったようです。そして、その内容は「系列大学への進学はせずに、専門学校に進む」という驚天動地の話でした。やり取りの中で「こんな話、いきなり親に話しても『何言ってんの!』で終わっちゃうと思ったので、1ヶ月くらいかけて自分の将来について紙にまとめた。それから、それを見せながら親と向き合った」という言葉がありました。高校時代に高い学費を親に背負わせた責任を自分なりに感じた上で、色々なことを考えたのでしょう。そして、自分の考えてきたことが親御さんに正確に伝わるようにするべきだと思ったのでしょう。そこに、本人の大きな成長を見て取れました。私のその子に対する当初の想いとは違う進路決定でしたが、心の底からエールを贈ることができました。自分の将来を色々な角度から考えた上で決めたこと、今まで自分に携わってくれた人間にそれを正確に伝えようと思ったこと、そして、それらが私自身の心にしっかりと届いたということに感動しました。これは、子どもなりの親や教師に対する、論理面の「やさしさ」の表現の一つであったと感じています。

 適切な「やさしさ」の提供は、人を大きく成長させたり、感動させたりする原動力となり得ることを実感しています。そして、そのためには「やさしさ」の本質が相手の心に届くように表現していかねばなりません。当塾の講師には教科学習面の指導力だけでなく、感情に負けない論理面の「やさしさ」を子どもたちに表現できるような力を身につけさせたいと考えています。講師自らが成長していく後ろ姿を子どもたちに見せることで子供たちが大きく成長できると信じています。私自身もまた、私塾業界で教育に携わる者の一人として今一度、教師としての「やさしさ」を原点から振り返り、より良い教育サービスの提供に努めて参りたいと思っています。

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